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「もしもし」 「蓮二、俺」 「どうした、まだ帰れないのだろう?」 「ああ、今日も厳しそうだ…泊まり込みになると思う。そっちは大丈夫?」 「何も変わりない、此方の事に心配は無用だ」 「うん…そうか、ならよかった。明日には帰れると思う、晩飯も家で食べる」 「では用意しておく。帰る前にいつも通り連絡を」 「ん、わかった」 「では頑張って来るように」 「ん。おやすみ」 「…貞治、」 「ん?」 「…愛している」 「…俺も愛してる、蓮二。明日には会える」 「ん」 「じゃあおやすみ」 「おやすみ」 可能性ある未来 真夜中、ベッドの中で横になりながら、確かに鍵の回る音を聞いた気がした。 チェーンはかけていない、かけない方が良い気がしていた。 決して計算して発した言葉ではなかったが、電話を切った後で確信した。 貞治は多分今晩中に帰ってくるだろう、どんなに研究が佳境を迎えていても強引にタクシーを飛ばしてくる。 そんな風に貞治に無理をさせる自分への激しい嫌悪感で、軽い眩暈がした。 貞治は大学時代にロボット工学を専攻し、そのまま院にすすみ、二十八になった今は研究室の助手という地位についている。 薄給な上時間は不規則、研究が山場に差し掛かると1週間以上は泊まり込み帰ってこない日が続く。 一方、俺は大学時代に書き散らした文が賞をとってから少しずつ入るようになった仕事をこなし続け、 今は月に数本のコラムを書く事である程度は安定した収入を得ている。 大学を出てからお互いの生活にすれ違いが多くなり始め、家に帰る時間を惜しいと思い始めた時、 共に住もうと言い出したのは貞治だった。 本当は大学時代から何度も同居の持ちかけをしようとして、俺の生活ペースを崩すのを恐れて出来なかった、と笑って付け足して。 俺は貞治がそういう空気を匂わせ、何度も言葉を飲むのに気付いていた。言葉が口から溢れるのを待っていた。 自分にはまったく同じかそれ以上の感情で常に傍らに貞治の気配を感じていないと気が済まない自覚があった。 だがそれをどうしても彼の口から言わせたかった。 強引に俺から同居を持ちかける事も出来たし、それを貞治が喜ばないはずはないとわかっていたが、 俺がお前と暮らすためなら生活ペースくらいどうとでも変えてしまえるのだと、 俺にとってそれだけの価値がある貞治自身に自信を持って口を開いてくれる日を待ち、卒業後にそれは漸く叶えられた。 自分は非常に恵まれていると思う。愛する相手と共に暮らすことができ、何よりもお互いを知る事ができる環境にある。 お互いの気持に揺るぎがない事もわかりきっている。 だが時折こうして、僅かでも離れると貞治を欲しがって仕方ない部分が暴走するのを止められない。 制御出来ない感情をもて余すのに堪えられない。 そんな風に彼を困らせる自分を本当に醜いと思う。 恋愛を巧く続けて行くためには、こういったわけもない我儘を無くせば良いのだろうと、他人を見て簡単に思い続けてきたというのに。 自己嫌悪で歪んだ顔をうつ伏せに枕に沈める。 こういう事の積み重ねはいつか貞治を呆れさせていくだろう。あの優しい男が辛そうに、俺に別れを告げる瞬間を想像するだけで苦しい。 彼に関するデータも恋愛に関する沢山のデータも揃うのに何故こうも自分の感情だけどうともならないのだろう。辛い。 寝室の扉を開く音が響いて、とっさに眠った振りを続ける俺の元に忍ばせた足音が近付く。 ベッドが僅かに軋み、枕元に腰掛けた気配、頬に触れるざらざらした貞治の指の感触に涙が出た。 「…すまない」 情けなく震えた声を出すのが嫌で堪えたら、くぐもった酷い声になった。 貞治は眠った振りなどとうに気付いていて、突然発した声にも驚く事はなかった。 にじんだ滴も逃さずに目元に指先が滑る。続いて口付けが柔らかく頬に降った。子どものように前髪を撫でる指先が涙を催促する。 「すまない」 堪えきれずに謝罪をかさねた。馬鹿な、女々しい自分ですまない。 一瞬の間の後、がさつく衣服の感触が頬をかすめて、体をかがめた相手に抱え込むように抱き締められた事を知る。 薄いYシャツの向こうに少し汗ばんだ肌の感触、 ベッドに埋めていた体を少し持ち上げられ胸に押し付けられるように腕に力が篭り、驚き瞼を漸く持ち上げた。 玄関の電気だけが扉の隙間から入り込み、肩口に顔を埋めた相手の項と背中のラインだけがぼんやりとオレンジ色に目に入った。 「…例えば、俺があそこの研究室をクビになったとする」 「は?」 貞治が発した言葉が理解できず、思わず間の抜けた声で問い返した。かまわず言葉を進める彼の声はよどみない何時もの低音で。 「開発途中のNU-145型チップは、一見従来のmkL型を踏襲した進化型のように見えるが、その伝達経路は根本的に異なっている。 伝達経路の仕組みに関しては中略するけど、つまりにはエリアごとの処理能力の微量の差の積み重ねが他との大きな差異を生み出しているという事になるが、 結果がもたらす内容からは進化型としての評価しか与えられていない状況だ。だが、実際はまったく根の違う新型だから、未知の能力を秘めているといえるだろう。 かなり可能性を広げる事の出来るチップだという事は確かだと時間をかけて周りの理解を得て、最近漸く研究室の一プロジェクトとしてすすみ始めた。 初期の実験データや、可能性のバリエーションを把握仕切れているのは俺だけだ。どこにでも売り込みにいける。」 「…何だ?」 ずらずらと続けられた言葉に疑問詞しか浮かべられない、何を言い始めたのだろうこの男。 状況も立場も忘れて、なんとなく怒りが浮かんだ。我侭を言ったのは確かに俺だが、話をそらすことはないだろう。 俺にわからない話題を、わからないように繰り返すなら、俺の元に帰る必要はないだろう。 軽く唇を噛んだ間を空けて、それでも堪えてかけようとした言葉にかぶせるように貞治が口を開いた。 「蓮二の可愛い我儘一つで首になるなら、他の研究室に移る事なんかわけもない」 (何を言い出すんだ) 不意打ちすぎて息がつまった。俺の背を抱く力が少し強まって、大事に抱え込まれているのを知る。 肩口に顔を摺り寄せてから背を起こそうとして、漸く顔を見れると思ったら額同士を軽くぶつけられ至近すぎて視界がぼやけた。 「…寂しいと思ってくれていたのは知ってる、平気そうな声を出していても、ずっと会いたいと思ってくれていたに決まってる。 蓮二のせいじゃない、もう俺の我慢が限界だったんだ。」 嘘だと言いかけて喉に言葉が引っかかった、みっともなく軽くしゃっくり上げるような息しかでない。 宥めるように頭をなでる手が腹立たしい。子供のようにその手に安堵して蕩かされる自分がもっと腹立たしい。 なんて男だ。何でこんな男にデータを使うことを教えたのだろう。 いつからこんな風に俺の心の動きを読むようになったのだろう。 俺の心の負担を軽くし、自分の責任にするなんて、酷く安い手だ。見え透いている。 でも涙がでる。どれだけ自分が大事にされているのかを知る、どれだけ自分が貞治を愛しているのかに気づく。 「…馬鹿だな、蓮二は」 どこまでもわかっているだろう男の言葉は甘い響きで告げられた。 うるさい、と答えた言葉も笑った貞治には睦言にしか聞こえてない。そういう聞こえるように言った。 久々に感じる互いの体温をかみ締めて、貞治は安堵するように深い深いため息をつく。 手の中の俺をたどるように背に回した手が何度も輪郭をたどる。俺も、貞治の事などどこまでもわかっているのだ。 くだらないと思っていた我侭などこれからも何度もきっと繰り返す。 その度俺は自己嫌悪に陥って、馬鹿だと彼は何度も言うだろう。逆に俺が彼を馬鹿だと言う事も起きるだろう。 俺も泣くし、貞治はもっと泣くだろう。それでいい。 一生を共にできる保障など、互いの馬鹿さ加減で十分証明できると思うから。 とりあえず、このだらだらこぼれる涙が止まったら、 なんだか幸せそうに俺の顔を覗き込んでいるこの男をはたいて、夜食でも作ってやろうか。 少し話をして、少し抱き合って。明日までの短い間、ゆっくり眠りを与えられたら。 ただ、繋いだ手は絆すように絡めた儘。離さないように。 終。 |